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「倭軍の侵略にもかかわらず、民の糧だった山林川澤」

「倭軍の侵略にもかかわらず、民の糧だった山林川澤」

Posted January. 21, 2025 08:52,   

Updated January. 21, 2025 08:52

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「察訪(駅站擔(dān)當(dāng)管理)は人を呼んでキジ狩りをさせた。たまたま山の中腹に大きな鹿が草むらの中で寢ていたが、弓一本で胸を射り抜いて倒した。肝臓はその場(chǎng)で生で食べて、肉は焼いて晝食に食べた」

朝鮮中期の呉希文(オ?ヒムン、1539~1613)の日記「瑣尾録」の一節(jié)である。楽な人生を送っている両班(ヤンバン)が狩りにでも出かけたようにみえるが、この文章が書かれたのは壬辰倭亂(文祿の役)の最中の1593年4月で、避難中だった。日記には「飢餓がますますひどくなり、民が毎日飢え死にしている」とも記されている。呉希文一家は生き殘るために、暇さえあれば魚を捕まえ、キジを狩り、山菜を採った。戦亂で農(nóng)地を追われた人々に、誰の所有でもない山と小川が生存の土臺(tái)になったのだ。

全州(チョンジュ)大學(xué)大學(xué)院史學(xué)科のオ?ハンニョン教授は17日、同大學(xué)の韓國古典學(xué)研究所が主催した學(xué)術(shù)大會(huì)の発表文「日常と避難、そして公有地」で、朝鮮の公有地である山と森、小川、池などいわゆる「山林川澤」の価値を「瑣尾録」を通じて考察した。オ氏は東亜日?qǐng)?bào)との電話インタビューで「特に戦爭(zhēng)が勃発した1592年には飢餓がひどかったが、山林川澤に頼って生き延びた人々が翌年、農(nóng)業(yè)を営み、義兵にも參加し倭軍に反撃を加えることができた」と説明した。

呉氏が「瑣尾録」に注目したのは、野原で牛に草を食べさせたり、川辺で魚を捕ったりするなど、公有地で行われた経済活動(dòng)が通常の史料にはほとんど記録されていないためだ。地租(田稅)と貢物を米穀で換算した大同稅の比率が1対3であることから、國全體として公有地である山林川澤と菜園が民の生活で占める比重は田畑の3倍に達(dá)すると見た。オ氏は「戦亂ではない平時(shí)にも公有地は朝鮮の人々の日常を維持する土臺(tái)になっただろう」と強(qiáng)調(diào)した。

王朝時(shí)代にはすべての土地が「王土」という観念があったが、山林川澤は王といえども私有できないところだった。しかし、朝鮮は官吏に配る土地が不足すると、開墾を前提に公有地を與えた。光海君(クァンヘグン)の時(shí)代には內(nèi)需司(王室財(cái)産管理官庁)などの公有地侵奪が頻発した。

呉氏は「朝鮮は仁祖(インジョ)以降は侵奪を統(tǒng)制し、粛宗(スクチョン)の時(shí)は制限するなど公有地を保護(hù)した」とし、「貴族と王が公有地を占めた英國のエンクロージャー運(yùn)動(dòng)とは逆の道を歩んだ」と説明した。また、「これまでの朝鮮の経済活動(dòng)研究は私的所有の発達(dá)に焦點(diǎn)を當(dāng)てていたため、『儒教國家の社會(huì)的セーフティネット』であった公有地に注目する必要がある」として「山林川澤のような社會(huì)的セーフティネットは今も必要だ」と話した。


趙鍾燁 jjj@donga.com