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敗戦80年、日本の戦後歴史認(rèn)識(shí)に注目する

敗戦80年、日本の戦後歴史認(rèn)識(shí)に注目する

Posted January. 13, 2025 08:47,   

Updated January. 13, 2025 08:47

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昨年12月、茨城県笠間市にあるかつて神風(fēng)特攻隊(duì)が訓(xùn)練した基地を訪れたのは偶然だった。特攻隊(duì)の特別展示を紹介するテレビ番組を見て、一瞬目が離せなかった。「特攻を命じた側(cè)(指揮官)と命じられた側(cè)(兵士)、雙方から見た戦爭(zhēng)の悲劇を想像してほしい」という展示擔(dān)當(dāng)者の呼びかけは、平均的な日本人の戦爭(zhēng)認(rèn)識(shí)を示しているのではないかと思った。

現(xiàn)在、精神科病院があるこの場(chǎng)所は、80年前は特攻隊(duì)部隊(duì)だった海軍航空隊(duì)司令部だった。1944年に航空隊(duì)司令官に就任した岡村基春大佐は、特攻隊(duì)を指揮した。この部隊(duì)は太平洋戦爭(zhēng)中、日本最大の地上戦だった沖縄戦で、世界史に類を見ない「自殺特攻」を強(qiáng)行した。にもかかわらず戦爭(zhēng)を起こしたことに対する反省はほとんど見られない。戦爭(zhēng)を美化しない普通の日本人も、「私たちが誤った」という反省ではなく「二度と戦爭(zhēng)はあってはならない」という言葉だけを繰り返す。

神風(fēng)特攻は、単に米軍の空母に自國(guó)の戦闘機(jī)を突っ込んだ無謀な作戦ではない。日本という國(guó)家のために自國(guó)民と植民地民まで戦爭(zhēng)の犠牲にした極端な戦爭(zhēng)犯罪である。敗戦後、日本軍はかなりの數(shù)の戦爭(zhēng)記録を焼卻処分したが、韓國(guó)人が犠牲になった痕跡をすべて消すことはできなかった。80年前に韓國(guó)人を乗せて沈沒した浮島丸の乗船者名簿、韓國(guó)人が強(qiáng)制徴用された佐渡金山の「朝鮮人煙草配給名簿」などに名前だけ殘っている韓國(guó)人は、これまでにもどのように連れて行かれ、ひどい差別に苦しめられたのか真相が明らかにされていない。

日本では今年、昭和100年、戦後80年を大々的に注目している。戦爭(zhēng)の暴走と敗戦、経済復(fù)興につながる昭和の時(shí)代を振り返り、80年間続けてきた平和國(guó)家の歩みを続けるという決意だ。天皇は、日本で戦爭(zhēng)を象徴する地域である沖縄、広島、長(zhǎng)崎を回る「慰霊の旅」にも出る予定だ。

しかし、「戦後の反省」については、責(zé)任ある日本の政治家は誰も積極的に発言しない。石破茂首相は年頭記者會(huì)見で、「戦後80年の節(jié)目を迎え、國(guó)際の平和と安全を維持するために、我が國(guó)としていかなる役割を果たすべきかを改めて考え、実踐する1年にしたい」と述べただけだ。ここには過去がない。過去がないのだから、當(dāng)然、反省もない。

2000年代に入って日本は歴史に沈黙し、歪曲する國(guó)となった。特に2015年8月14日、安倍晉三元首相が「戦後70年談話」で、戦爭(zhēng)とは何の関わりのない世代に「謝罪を続ける宿命を背負(fù)わせてはならない」と宣言して以降、このような傾向が強(qiáng)くなった。敗戦後に何度も謝罪したのだから、もう謝罪はしないということだった。その後の日本政府の右傾化は周知の通りだ。教科書から「従軍慰安婦」表現(xiàn)の削除を主導(dǎo)した菅義偉元首相、韓國(guó)政府の元徴用工賠償最高裁判決の解決策に「歴代內(nèi)閣の立場(chǎng)を全體として引き継いでいる」とだけ明らかにした岸田文雄前首相などの行動(dòng)は、変わらない日本政府の歴史認(rèn)識(shí)を示している。

敗戦80年であり、韓日國(guó)交正?;叮澳辘扦ⅳ虢衲辘?、韓日関係改善及び協(xié)力強(qiáng)化を飛躍的に図るべき時(shí)だ。しかし、これには真摯な日本の歴史認(rèn)識(shí)が必須だ。今日の巖屋毅外相の訪韓は、韓國(guó)に対する日本の「戦後80年、國(guó)交正常化60年」政策を示す出発點(diǎn)だ。韓國(guó)の政治狀況を言い訳に適當(dāng)に曖昧にすれば、誰が大統(tǒng)領(lǐng)になったとしても、韓日関係の改善は期待できないだろう。